6月 11 2014

仏教とアジア諸国の運命

Posted by niknikしてやんよ in 未分類

仏教には個人の一生だけでなく国家の運命も左右するような不思議な力があるようである。

なぜなら仏教発祥の地でありながらヒンズー教に改宗したインドをはじめとして、それを発展完成させた中国では道教、儒教が仏教を凌駕し、朝鮮王国に至っては高麗時代僧侶が腐敗横暴を極めるという理由で仏教を排斥し、中には石仏を壊した後その首に鎖をつけて縛り付けた国王もいたという。
この後のアジアの歴史は説明するまでもなく、仏教を国家宗教にしている日本とタイだけが西欧列強の植民地にならずに独立を保ち続けられ他の国はユダヤ・キリスト教国に骨までしゃぶりつくされるという悲惨な運命をたどることになったのでございます。

第二次大戦後70年を経過した現在ようやく世界文明の中心がアジア=世界地図の中央がアジアになろうとしているが宗教的にはインド東南アジアはイスラム教、中国ではマルクス教、韓国ではキリスト教が盛んで国運を隆盛に導く不思議な力をもつ仏教が取り入れられないのは一つの不安要素ではある。

その点日本国は聖徳太子以降、神道と仏教が二卵性双生児のように合体し歴代天皇が神前で国運の隆盛と国民の平安を祈念されているお陰もあり、先端科学技術、芸能、ファッション、食文化で世界をリードしているといっても過言ではないでしょう。

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6月 11 2014

現代的な最後の将軍、徳川慶喜

Posted by niknikしてやんよ in 未分類

子供の頃、ひいお婆ちゃんから、「自転車に乗っている徳川慶喜公を目撃した」という話を聞いたことがありました。学生になってからこの話がすごく貴重であることに気付き、なんとなく徳川慶喜という人に興味を持ち始めました。
徳川慶喜は言わずと知れた徳川最後の将軍です。水戸徳川家九代藩主の徳川斎昭の七男として生まれ、神君家康の再来と言われ将来を嘱望されていました。家茂の急死後、征夷大将軍に任命されますが、慶喜はこの職にあまり就きたくなかったようです。それは、時代は幕府が倒れる方向に向かっているのを知っていたからだと言われています。
鳥羽・伏見の戦いで兵を置いて江戸に帰ってしまったり、仮病をつかって供奉を辞退したりなど、良くない噂はありますが、慶喜は厄介事を好まず、何にせよ「やる気がない」ように見えます。しかしそれは、滅びの決まった時代においては、何をやってもダメだと先を読んでいたかのようにも見えます。そういう意味で、慶喜という人は極めて現代的な人物に感じるのです。
現代的と言えば、慶喜は非常に多趣味で、私のひいお婆ちゃんも目撃したサイクリングや、油絵、刺繍、写真撮影、さらにはお菓子作りなどにも後年は没頭したようです。
徳川十五代将軍の中でも異彩を放つ徳川慶喜は、本当に興味深い人物だと思います。

6月 11 2014

中国史の三国志から学ぶ。諸葛亮孔明

Posted by niknikしてやんよ in 未分類

三顧の礼という言葉をご存知でしょうか。
これは蜀の劉備玄徳が諸葛亮孔明を仲間に入れるために足を三回運んでようやく仲間に入ってもらったという話です。

蜀の大将劉備玄徳には関羽や張飛、趙雲といった武勇に優れる大将がたくさんいました。しかし武勇に優れても知性に優れるものはいず、敵の戦略に負けてしまう恐れがありました。

そこで天才として知られる諸葛亮孔明を迎え入れたいと思うのです。

劉備は一回目、二回目と諸葛亮の家までいったものの留守で会うことができませんでした。
家来にいかせることなく、自分自身で説得させるためにわざわざ何度も足を運んだのです。
三回目、ようやく会えたのですが劉備が訪ねた頃は諸葛亮は昼寝中でした。
しかし劉備は起こすことなく、諸葛亮が起きるまでずっと庭で待っていたのです。何時間か経ってようやく目を覚ますと庭には劉備の姿が。驚いた諸葛亮は慌てて家に招き入れ、今の国を魏、呉、蜀の三つの国に分ける天下三分計を劉備に提案したのです。

そこで劉備が民の為に必死に国づくりをしているという熱い想いに負けた諸葛亮は劉備に仕えることに決めたのです。

諸葛亮は後に、蜀にとってはかけがえのない存在となり、劉備の死後もずっと蜀を支えることになるのです。

6月 11 2014

歴史は好きなんですけど、順序がちょっと・・・

Posted by niknikしてやんよ in 未分類

基本的に歴史は好きです、物語として楽しめます。こんなにすごい事や素晴らしい事が、何百年も何千年も前に実際にあったなんて本当に感動ものです。心の底から感動しているのに、どうしてテストになるとやる気がなくなるんでしょうね。今はまあ何とか会人として恥ずかしくない程度の知識で世の中を渡っていますが。ただ順番がどうもあやふやで…。
歴史もののTVドラマを観ていると、どのくらいアレンジしてあるのか分かりませんが「おもしろい!」名前はよく知っているけど、こんなに波乱万丈な人生を送っていたんだ~と感動して、そしてエンディングの曲にのせて私の記憶に刻まれるのです。問題はそのドラマの主人公と、かなり近いであろう歴史上の人物とがなかなか繋がらないことです。ものすごく有名人なのに。どの時点でどんな風に関わったなどというあたりがとにかく自信がありません。
たとえば繋がるで何故か思い出した犬公方の徳川綱吉ですが、犬、悪政、などキーワードはおさえています。でも、そこに水戸黄門がやって来るとだんだんアヤシクなるのです。個別では結構いけると思うのですが。歴史の順序通りにドラマを観ていないせいかもしれませんね。たとえあっても観るのに壮大な時間が必要ですけど。

6月 11 2014

田沼意次と徳川家重、徳川家治の再評価

Posted by niknikしてやんよ in 未分類

田沼意次の評価が以前よりも上がっていますが、私もファンで、田沼意次の本を読んだりしました。
田沼の立身出世は九代将軍徳川家重に信任されたことでした。
郡上藩の一揆の訴訟に家重の命で参加し本格的に幕政に参加し、大名になりました。
家重はなくなる際に、田沼意次は完全な人なので、重要するように十代将軍家治に遺言しています。
このような遺言はなかなかあり得ません。よほど信頼され、優秀だと思われていたのだと思います。
家治も遺言通り田沼意次を重用します。
二人の信頼関係は深く、家治に男子が生まれないので、田沼意次が側室を勧めた際、家治は田沼意次も側室を持つことを条件としています。
田沼意次は将軍家治の支持のもと、重商主義政策を進めて行きます。
今までの農業一辺倒の収益ではなく、商業を重視していきます。
よく一般にワイロ政治と言われますが、その評価が正しいかどうか怪しいです。
田沼意次の政策は後に松平定信に全否定されてしまいましたが、そのまま田沼意次が政権を担っていれば、日本の近代化は早かったのではないかと言われています。
現在、家重、家治の親子は愚君として評価されていますが、田沼意次を重用し、政策を支持し続けたことが再評価されつつあります。
一度田沼意次の本を読んで見てはいかがでしょうか?
江戸の三代改革に田沼の改革がなぜ入っていないのか不思議です。
安政の改革や慶応の改革も改革と言われているのにも関わらずです。
やはり出る杭は打たれるということなのでしょうか。
田沼は旗本ですが、家康以来の旗本ではなく、紀州藩からの転籍組です。その辺りの出自も関係しているのかもしれません。